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ブレスラウ (ドイツ語:) は、1911年進水のドイツ海軍の小型巡洋艦()である。マクデブルク級。1914年からはオスマン帝国海軍所属となり、ミディッリ (トルコ語:) と改名された。'') は、1911年進水のドイツ海軍の小型巡洋艦()である。マクデブルク級。1914年からはオスマン帝国海軍所属となり、ミディッリ (トルコ語:) と改名された。'') と改名された。 == 艦歴 == 1911年5月16日進水。艦名は現在はポーランド領となっているヴロツワフのドイツ語名である。1912年就役し、モンテネグロ封鎖に参加した。1913年には、カール・デーニッツ中尉がブレスラウの士官に就任している。 第一次世界大戦勃発時ブレスラウは巡洋戦艦ゲーベンとともに地中海に配備されており、イギリス海軍とフランス海軍の追撃を受けて逃亡した2隻はオスマン帝国へ向かってそのままオスマン帝国海軍所属となった。その際、ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム、ブレスラウはミディッリと改名された。ミディッリは、現在はギリシャ領になっているレスボス島のトルコ語名である。 1914年10月29日、オスマン帝国海軍は黒海沿岸のロシア帝国領に対する攻撃をおこなった。ミディッリはノヴォロシースクに対する攻撃を行ったが、ロシア側は保有するあらゆる艦船より速力のあるミディッリに対し、なんら有効な反撃を加えることができなかった。ミディッリの速力は、当時の黒海艦隊で最も新しかった巡洋艦よりずっと優れていたのである。11月18日、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはサールィチ岬沖でロシア艦隊と遭遇し、サールィチ岬の海戦が発生した。12月23日から24日の夜、ロシア軍はゾングルダク港を旧式船を沈めることで封鎖しようと試みる閉塞作戦を実行していた。24日未明、ミディッリはそれら閉塞船と遭遇し2隻を沈没に追い込んだ。 1915年1月6日、防護巡洋艦ハミディイェとミディッリはヤルタ沖でロシア艦隊と遭遇し、ミディッリは戦艦エフスターフィイに命中弾を与えた。6月10日、ミディッリはボスポラス海峡北方でロシアの駆逐艦2隻と交戦し、1隻を大破させたが、ミディッリも命中弾を受けた。7月18日、ボスポラス海峡沖で触雷して損傷する〔これについては、ロシア側のどの艦船が敷設した機雷であるのか、ロシアで論争がある。つまり、黒海艦隊の機雷敷設潜水艦クラープの敷設によるとする意見と、機雷敷設艦アレクセイ大公、コンスタンチン大公、クセーニヤ大公妃が敷設したものとする意見である。〕。これにより、ミディッリは長らく修理に入ることを余儀なくされた。 1916年3月2日、人員および物資輸送任務からの帰路、ミディッリはゾングルダク北方で短時間ロシア駆逐艦2隻と交戦した。4月3日、ミディッリはロシアの掃海艇T-33を攻撃した。4月4日、ミディッリは戦艦インペラトリッツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤを中心とするロシア艦隊と遭遇し攻撃を受けた。7月22日、機雷敷設のため出撃していたミディッリはスィノプ北方で迎撃に出てきたロシア艦隊と出遭った。まず、ミディッリはロシア駆逐艦シチャスリーヴィイと交戦した。続いて戦艦インペラトリッツァ・マリーヤが現れミディッリを攻撃したが、ミディッリは直撃弾を受けることなく逃走に成功した。 1917年6月25日、ミディッリはドナウ川河口への機雷敷設などを行った。翌日、戦艦スヴォボードナヤ・ロシヤ(旧インペラトリッツァ・エカチェリーナ・ヴェリーカヤ)を含むロシア艦隊と出会い攻撃を受けた。 1918年1月20日、ヤウズ・スルタン・セリムとミディッリはダーダネルス海峡を出てイムロズ島のKusu湾にいたイギリスのモニター2隻(ラグラン、M28)を撃沈した。それから2隻はリムノス島へ向かおうとしたが、その際にミディッリは触雷し沈没した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ブレスラウ (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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